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本因坊秀策とは~ヒカルの碁にも

本因坊秀策は、江戸時代末期に活躍した
「百五十年来の碁豪」と言われる天才棋士です。

本因坊道策・本因坊丈和に続いて
碁聖」と呼ばれ、

佳麗な碁風と、正確な形勢判断で、
近代の布石の基礎を築いたと言われています。

秀策の有名な対局のひとつ
耳赤の一局(みみあかのいっきょく)』(耳赤の一手)
をご紹介しましょう。

これは、1846年9月11日
井上幻庵因碩(いのうえ げんなんいんせき)との対局の事です。

この時、井上幻庵因碩は八段で、秀策は四段。

局面は、秀策の劣勢であったにも関わらず、黒127手目、
秀策の一石二鳥ならぬ
一石四鳥の妙手が、勝敗の大きな決め手になった対局でした。

秀策がその一手を打った瞬間、
井上幻庵因碩のが(その一手に動揺し)赤くなったのを、
見学者によって目撃された事が
「耳赤の一手」の名前の由来になっています。

幻庵因碩は後に、その時の秀策の芸は「七段を下らない」と評価したそう。

現在でも、
秀策の棋譜を並べると段が上がると言われるほどで、

2004年(平成16年)には、
徳川家康・第1世本因坊算砂(さんさ)・第4世本因坊道策とともに、
日本棋院の第1回囲碁の殿堂入りを果たしました。

本因坊秀策の生い立ち

本因坊秀策は、今から約200年前、
1829年6月6日(文政12年5月5日)に
広島県尾道市因島外浦町(備後国因島)で生まれました。

父は桑原輪三、母はカメ、
秀策の幼名は桑原虎次郎(とらじろう)と言います。

囲碁は母から学び、
3~4歳の時にはすでに、碁石を並べて遊んでいたそう。

秀策は早くに碁の才能を発揮し、
囲碁の神童」とも呼ばれるようになります。

やがてその棋力は、因島から海を隔てた三原城主にも認められ、
秀策は三原城に出仕するようになり、
7歳のときには、竹原の宝泉寺住職・葆真和尚からも囲碁の教えを受けて、
さらにその才を伸ばして行きます。

1837年(9歳)、
秀策の大成を望む三原城主のはからいで

秀策は江戸に出て、
十二世本因坊の本因坊丈和(じょうわ)の元に、入門する事になりました。

秀策は本因坊丈和にも、
「是れ正に百五十年来の碁豪にして、我が門風、これより大いに揚がらん。」
と絶賛されたそうです。

1839年(11歳)、秀策は初段になり、その後も着々と段位を上げていきます。

正式に秀策が本因坊跡目となったのが1848年(20歳)、
同じ年に、本因坊丈和の娘・花と結婚もしました。

御城碁(碁の技量を徳川将軍に披露する、真剣勝負)ではついに

のちに、秀策最強説の有力な根拠とされる、
19連勝無敗の大記録を打ち立ます。

1853年(25歳)七段に昇進、

その後、

1861年(33歳)、江戸ではコレラが大流行しますが

秀策は止めるのも聞かず患者の看病に当たり、
秀策自身もコレラに感染、そのまま34歳で死去しました。

棋力のみならず極めて人格に優れた秀策は、
碁聖(後聖)と称されています。

秀策と漫画「ヒカルの碁」

「ヒカルの碁」という、
囲碁をテーマにした漫画があります。

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ほったゆみさんが原作で、小畑健さんが画を描いたこの漫画は、
2001年にテレビアニメにもなりました。

ストーリーは、
主人公である囲碁を知らない少年、進藤ヒカルの元に
平安時代の天才棋士(架空の人物)・藤原佐為(ふじわらのさい)の霊があらわれて、

2人で現代の囲碁界での「神の一手」を目指す姿が描かれています。

本因坊秀策は、
藤原佐為が、以前取り憑いていた人物という設定で
登場(主に回想で)しました。

当時、「囲碁」は、少年漫画としては異色な題材です。
しかし日本棋院も全面バックアップを行い、
「ヒカルの碁」は、若者中心に囲碁ブームを巻き起こしました。

特に、「ヒカルの碁」の15巻単行本)では、

ストーリー上、
本因坊秀策ゆかりの地を巡るお話があり、
実際の名所・名跡が漫画に多く描かれています。

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その巻は、「ヒカルの碁」の重要なエピソードのひとつなので、
「ヒカルの碁」を読んだ事が無い方は、
ぜひ、最初の1巻から読んでみる事をお薦めします。

単行本とは別に、完全版も出版されているので、巻数はお間違えなく。

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